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恋と人生の迷路の先で モロッコの古都フェズで出会ったナビル

2018.03.28 伊佐知美

その街に到着した時、時刻はすでに夕暮れだった。一歩進むたびに空は暗くなっていくし、灯りは刻一刻ともるけれど道は分からず。モロッコ・マラケシュからフェズに突然行くことを決めた私は、とにかく少し怖がっていた。

モロッコを訪れるのは、これが初めてだった。商業都市・カサブランカから南下して、かつての帝都・マラケシュへ。そしてそのまま東へ抜けて、砂漠にたどりつき、そしてラクダに乗ったりして、夜は満点の星空を眺める計画だった。

そう、「だった」。今となってはもはや過去形の、昔の話。

そもそもモロッコに行こうと思い立った理由は「前々からの憧れ」で、自由気ままにその日の気分で周遊することは、当然「想定内」だった。

ただひとつ「想定外」だったのは、出国間際に失恋したこと。まさか、マラケシュまで来て、砂漠を目の前にして怖気づくなんて。まさか、自分が「このまま乾いた砂漠に行ったら、心まで乾いて死んでしまうんじゃないだろうか」と本気で懸念する女だったなんて……。

フェズは、「迷うことこそが醍醐味の、世界遺産の街だ」と聞いていた。だからといって、到着早々迷うわけにもいかない。なんといっても、現時点で私はすでに「人生に迷っている」のだ。その上荷物は重いし、やっぱり今はほぼ夜だし、一人旅の女性にとって初めて訪れる街の暗がり以上に怖いものなんて、今は砂漠くらいしか思いつけない。

GoogleMapを片手に、あらかじめ保存してあった住所をたどる。宿は、フェズきっての観光名所である「ブー・ジュルード門」からすぐの位置にある、モロッコの旧邸宅を改装した「リヤド」の予定だった。けれど、Airbnbで予約したその宿は、もうすぐ近くにあるはずなのに、探しても、探しても見つからない。見上げると、空はもうすぐ完全なる闇。

バツイチ、シングル、失恋したばっか。宿にも着けない。

あぁもう、なんかどうにでもなれ。

もう嫌になって、座り込んでしまいそうになった時、「Where do you wanna to go?(どこへ行きたいの)」とだいぶ上の方から声が聞こえた。気がした。

見上げると、180センチ超の長身の男性が笑っていた(私の身長は158センチだ)。怪しいか、怪しくないか。一人旅の女性は声をかけてくれた人を、悲しいかな瞬時に判断する能力が必要だ。「自分の身は自分で守れ」。長旅で鍛えた私の勘は、「この人は大丈夫」と言っていた。

スマホを見せる。どれどれ、と思案する彼の顔をじっと見る。そして私は、「なんだ、このすぐ近くじゃないか」と目にしわを寄せながら、くしゃっと笑う瞬間を見た。彼は、私よりも随分と若そうだった。20代半ば、それよりもっと若いくらい。アラブ人特有の濃いヒゲをたくわえているから大人びて見えるけれど、とても細身で、もしかしたら学生かもしれないと私は予想する。

世界遺産の街にともるオレンジの光が、彼を照らす。「荷物を持つから、ついておいで」と彼が言う。私の宿は、すぐそこのようだった。

異国で誰かに荷物を渡すって、かなり勇気がいる行為。けれどこの時すでに私は、「彼を信じてみたい」と思っていた。疲れていたから、ほかに選択肢を考えたくなかっただけかもしれないけれど。

フェズ独特の細い道、曲がりくねったその迷路の先に、私が目指していた宿はあった。コンコン、と扉を叩く。キィ、と扉が開く音がして、中から男性がゆっくり顔を出す。交わす言葉、モロッコ語の慣れない響き。斜め上の彼の横顔を見つめていたら、なぜだか途中から表情がふっと曇る。

「?」と私は思う。扉を閉めて、肩をすくめながら彼が小さな声で語りだす。要約すると、結局「この宿は君の宿ではないらしい」ということだった。「えっ?」と思わず日本語が漏れてゆく。すっと血の気も引いていた。だってここは、私の、宿、だったはず……。

「もう一度、きちんと住所を、僕に見せて」

「宿の予約画面を、確認しよう?」

なんて言いながら、改めて2人でスマホの小さな画面を覗き込む。と途端に彼が、大きな声で笑い出す。「なんてこった!」とか何とか言うから、状況がよく飲み込めなくて、「ねぇどうして?」と、また日本語で問いかける。

「ここは、僕んちの宿だよ!」

やはり状況が理解できず、「そんな偶然、あるものか」と今度は私が笑ってみせた。

彼の家は、フェズの街の入口近くで宿業を営んでいるらしかった。Airbnbに登録していて、よく外国人を受け入れていて、そして今夜は一人の日本人女性が泊まる予定だったという。だから彼はその子を待っていたのだと、後から知る。「けれど、まさか君だったとはね」と、まるでそこが物語の中の舞台かのように笑う彼。

そして私たちは、互いに名前を教え合う。名前は「ナビル」といった。「私はトモミ」と何度も言うのに、どうしても発音できないようで、「トーモーモ?」とか「トーミーム?」だとか、言葉遊びのように繰り返す。

夜の暗さは、もう気になっていなかった。「本当の宿」はとても素敵で、モロッコ特有の装飾にあふれていて、4階まで吹き抜けの屋根が気持ちよかった。屋上からは、またたく星がずっと向こうまで見渡せた。

そして、この日から私とナビルは、毎日同じ宿のソファに座り、その日にあった他愛もない日常を話したり、ご飯を食べたり、洗濯物を一緒に干したり。そんな取るに足らない、けれど微笑ましい日々をともに送ることになってゆく。

「フェズの街は、とてもとても、美しい」

「丘の上の遺跡に登り、夕陽を見るときの幸せな気持ちといったら」

「おはようトーモーミ。今朝は何を、食べたい気分?」

兄弟なのか、姉妹なのか、はたまた宿のスタッフとしての優しさなのか。つかず離れずよい距離感を保ちながら、けれど時にじっと瞳を見つめて笑ってくる。ナビルのそばにいるのは嫌いじゃなかった。

「乾いたスポンジが、まるで水を吸収するように」という表現は、この時の私のためにあるのではないかと思っていた。世界の中心が、自分たちのように思えたら。それはもう、恋がはじまりそうな合図だと、認めていい。

***

期待をさせておいて何なのだけれど、結局ナビルとは、その後何も起こってない。見つめ合って、笑い合って、時折そっと手をつないだり、少し頬に触れてみたり。ただ美味しいご飯を毎日一緒に食べただけ。

けれどそれで、十分なような気もしていた。

私は、フェズからカサブランカを経てスペインに飛ぶ前、数泊だけモロッコの青い街・シェフシャウエンへの旅をした。帰り道はフェズに寄るけど、それは2時間だけの乗り換えの待ち時間。

ナビルの宿のチェックアウトを済ませて、そして彼とFacebookを交換した際、「もしかしたらもう会えないかもしれない」と切なくなった。「バイバイ」と言ったけど、その時私たちは、互いに「私がもう一度フェズに戻ること」を知っていた。

そしてナビルは、シェフシャウエンへ向かうバスに私が乗りこんだあと、やっぱりこう連絡してきたのだ。「もう一度会いたい」って。

彼はついでに、「僕の宿に、君のヘアゴムが落ちてたよ」なんてことも言っていた。それは単なる忘れ物。わざとでもないし、取りに戻るほどのものでもない。世界中で売っている、安物だった。けれど私は、「取りに行くね」と答えていた。ヘアゴムなんて、互いのつまらない言い訳だ。私も、彼も、結局もうひと目だけでも、会ってから離れたいだけだった。

たった2時間、120分。そしてそれきり。私たちの間に、何かが芽生えていたのかどうかすら、今となってはもうわからない。

日本に帰ってからも、ナビルはたまに連絡をくれる。「会いたい」の言葉も、約12,000kmの距離の前には霞んでしまう気はするけれど……。

いつかまた、フェズを旅する機会が、私の人生にあるだろうか? あるとしたら、またナビルに会えたらいい。「あの時私は、あなたのことが好きだった」と、次に会ったら素直に言えるかもしれないから。

「もしあの日、『モロッコに残ってほしい』という彼の願いを、受け入れていたとしたら」。

「たら」「れば」を言ってもキリがないけど、やっぱり時折考えてしまったりすることはある。だって、旅先の出会いはいつだって人生を大きく変える可能性を秘めている。

そういえば、モロッコからスペインへ出国する際、あんなに辛かった過去の失恋の痛みは、随分と和らいでいたような気がした。女の傷は、旅と恋が埋めていく。かもしれないという話。

ナビルは今日、どんな1日を過ごしただろう。

 

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    伊佐知美

    伊佐知美
    ライター、エディター、フォトグラファー。『灯台もと暮らし』編集長。数々の媒体に旅にまつわる記事を寄稿。著書に『移住女子』(新潮社)がある。オンラインSlackコミュニティ「#旅と写真と文章と」オーナー。主にTwitterとnoteで情報発信中。 Twitter世界一周ブログポートフォリオサイト

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